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病院の歩み



初代院長 井上達也

井上眼科病院の創始者・井上達也は、徳島藩の藩医であった井上肇堂の四男として出生。1870年に大学東校(東京大学医学部の前身)に入学し、ドイツ人教授ミュルレル氏のもとで学びます。

1876年には東京医学校の眼科掛に任命され、それまで外科の一分野とされていた眼科を独立させました。これが、のちの東京大学医学部眼科学教室のはじまりとされています。1880年には、日本人として初めて東京大学医学部の助教授に就任します。当時、欧米から招かれたお雇い外国人が学問を主導していた時代において、助教授という職は日本人として最高位の地位でした。

翌1881年(明治14年)、市井の人々の診療に専念するため、達也は東京大学の職を辞して神田駿河台に「済安堂医院」を開設します。これが井上眼科病院のはじまりとなります。

初代院長 井上達也
(1848~1895)

「済安堂」と記された額看板。その名は医療法人の名として現在まで引き継がれている。

明治時代のカルテ。当時は眼底の様子をカメラで撮影できなかったため、絵で描き記していた。

達也の功績①-日本初の眼科学術団体「井上眼科研究会」を結成

欧州留学で新たな治療法や知見を学んだ達也は、それらを広く共有するため、1888年に「井上眼科研究会」を設立します。これは日本で初めての眼科学に関する学術団体となりました。達也の没後、同研究会は発展的に解消され、その志は1897年に発足した日本眼科学会へと受け継がれていきます。

『井上眼科研究会報告』は日本における最初の眼科専門誌。達也が逝去するまでに第16号まで刊行された。

達也の功績②-「井上式白内障手術法」の開発

達也が特に力を注いだ分野の一つに白内障手術がありました。なかでも「井上式白内障手術」は当時として画期的な術式であり、その名は広く知られるようになります。さらに、自ら「井上式白内障刀」などの手術器具を考案・改良し、常により優れた治療法の探求に努めました。1890年には病院を近代的な洋風建築として新たに建設。当時としては最先端の設備を備え、蒸気消毒を導入した「無菌手術室」を設けるなど、衛生面にも革新的な配慮がなされていました。また、電灯設備を導入するなど、まさに時代を先取りした新病舎として注目を集めました。病院の評判は広く知れ渡り、当時、夏目漱石をはじめ、数多くの著名人が通院したと言われています。

1892年(明治25年)ごろの病院の様子。当時、「井上眼科研究会報」は100名以上にわたる医師にて構成されていた。

第3代院長 井上達七郎

国民病と戦う―『通俗眼病トラホーム講話』を発刊

明治時代、「トラコーマ(伝染性の結膜炎)」は放置すると失明に至ることもある病気でした。日本全国で大流行し、戦後に抗生物質が登場するまで「国民病」として恐れられていました。3代院長の井上達七郎は早くから、眼科衛生学の視点からトラコーマ治療の重要性を訴えてきました人物でした。

特に欧州留学中、世界的な細菌学者でありトラコーマ研究の権威であったライプツィヒ大学のザットレル教授に師事したこともあり、当時の日本におけるトラコーマ研究の先駆者の一人になります。日本では1919年に「トラコーマ予防法」が公布され、全国的な撲滅運動が展開されますが、達七郎はその20年前に『通俗眼病トラコーマ講話』を刊行し、日本の眼科学会に多大な影響を与えました。

第3代院長 井上達七郎
(1869~1902)

明治27年(1894年)の書。「病ミタルヲ治センヨリハ病ムヲ防グニ如カズ」と述べ、眼病の予防法について解説している。

明治32年(1899年)の書。師ザットレル教授の影響を受けて、日本で初めてトラコーマ研究を著した。

第7代院長 井上達二

神経眼科の世界を切り開く

井上達二は東京大学眼科を経てドイツ留学から帰国し、1909年に第7代院長に就任します。達二は明治・大正・昭和の3代の長きにわたって院長を務めた人物です。この間、1923年の大震災による病院の焼失と復興、1945年3月10日の大空襲による罹災患者1000余人の治療など、激動の時代にあって特筆すべき幾多の足跡を残しています。また医療器具の開発など、学術面でも大きく貢献した人物でした。

第7代院長 井上達二
(1881~1976)

達二の功績①-神経眼科の領域を切り開く

達二は、日露戦争において従事した陸軍予備病院での経験をもとに論文を執筆し、ライプチヒ大学で医学博士の学位を授与されています。その内容は、戦争中に頭部に貫通銃創を負った患者を診察し、自作の測定器で視野と大脳の関係を詳細に調べて「後頭葉視覚中枢のマッピング」を作成し、網膜と大脳皮質の対応を証明するというものでした。この論文は2000年にロンドン大学のグリック・スタイン教授らにより再発見され、神経眼科の発展に寄与した画期的研究として再評価されました。

右:達二の医学博士論文(1909年)左:イギリスの医学雑誌「Brain」(2000年)

達二の功績②-近視予防と視力表の開発

達二は眼科医としての立場から近視予防の研究に取り組むとともに、国語・国字問題にも関心を寄せた国語論者でもありました。1915年には、日本初となる「小児試視力用画本」を制作。独自の絵を用いることで、言葉が十分に理解できない小児でも視力検査が行える工夫がなされています。さらに、戦前から視力保健連盟に参画し、子どもたちの近視予防運動に尽力しています。達二の研究は、姿勢矯正や机・椅子の改善といった身近な問題から、最終的に「国語・ローマ字問題」や「左書き問題」にまで及びました。日本眼科学会の講演「国字に関する眼科研学」では、左横書きの有効性を科学的に証明。1946年には内閣設置の国語審議会の委員に任命され、漢字の字体やローマ字綴りの有効性などについても研究を行っていました。

左:日本初となる「小児図画試視力表」(1915年)、右:達二による考案「万国コ式試視力表」

第8代院長 井上正澄

米軍病院の眼科顧問に

戦後、第8代院長の井上正澄は、GHQの要請を受けて米軍病院「東京アーミー・ホスピタル」の眼科顧問として勤務し、米軍関係者とともに眼科診療にあたりました。最新のアメリカ眼科学を学ぶ中で、日本の治療技術や学問的な遅れを痛感します。当時、正澄は軍医に混じり、アメリカの専門医試験の勉強に取り組んでいました。そうした中で、日本の眼科臨床の再教育の必要性を強く意識し、欧米各地の視察旅行も行っています。

特に関心を抱いたのが、斜視や弱視の検査・訓練を専門に行う視能訓練士の存在でした。正澄はその役割に強く関心を示し、視能訓練士発祥の病院などを詳細に視察しています。1971年に視能訓練士法が制定されると、当院からも第1回国家試験に2名が合格。その翌年には4名の視能訓練士が誕生しました。早速、当院の視能訓練士による幼児の視力検査に関する研究が行われ、小児眼科における先駆的な取り組みが行われました。

第8代院長 井上正澄

第9代院長 井上治郎

第9代の井上治郎は1960年東京大学を卒業後、同大眼科助手を経てシカゴ大学眼科講師として渡米、4年間にわたる研究生活を送り帰国して1971年に新設された帝京大学助教授などの要職を歴任します。1973年、当院の副院長に就任した後は、医療法人の設立、保険医療機関への転換など、病院運営の近代化に努め、1981年9月に病院を現在の地に移転させました。

第9代院長 井上治郎

治郎の功績-原因不明の難病に挑む

1972年の日本眼科学会総会にて、厚生省のベーチェット病研究班員として、同大学講師の荒木誉達氏とともに調査結果を発表しています。働き盛りに発症しやすく「亡国の難病」と言われていただけに、日本初となる研究調査は大きな反響を呼び報道されました。ベーチェット病は高い失明率をもつ病気であることから、治療だけでなく、患者が訓練できる施設の必要性、社会の受け入れ体制の重要性など、いまのロービジョンケアにつながる考えを報告しています。治郎はその研究について「病気に罹っている患者の社会的状態の分析なども当然あって良いと思う。現在の時点で多くの患者を救う、あるいは一般の人々の注意を向ける可能性のあることもやる必要がある」と述べています。その後、彼の提唱する「患者様第一の治療を」の理念の原点を知ることが出来ます。

写真:当時の新聞記事(1972年)

病院沿革

西暦 出来事
1848年 徳島藩医 井上肇堂の四男として井上達也 出生
1876年 井上達也が東京医学校の眼科掛に任命(東京大学医学部眼科学教室のはじまりとされる)
1880年 井上達也が東京大学医学部助教授に任ぜられる
1881年 井上達也が東京・神田駿河台に「済安堂医院」を開設
1888年 日本最初の眼科研究団体「井上眼科研究会」を結成(のちに日本眼科学会へ合流)
1889年 井上達也が「井上式試視力表」を発表
1890年 レンガ造り4階建の新病院が完成、電灯や無菌手術室をはじめ画期的な設備を導入
1892年 病院名を「井上眼科病院」と改称
1897年 第三代院長に井上達七郎が就任
1899年 井上達七郎、日本最初となるトラホーム研究書『通俗眼病トラホーム講話』を刊行
1905年 第六代院長に井上誠夫が就任
1909年 第七代院長に井上達二が就任
1911年 井上達二、ドイツ語論文『視覚中枢の銃砲創による視力障害』によって、ライプチヒ大学より医学博士の学位を授与
1916年 井上達二、日本最初の図画試視力表を作成
1923年 関東大震災により病院が消失、大森に仮診療所を開設(同年、神田駿河台に新病院を再建)
1945年 東京大空襲により罹災。一夜に1000名以上の患者を診察する
1945年 GHQの要請により井上正澄に築地にあるアーミー・ホスピタルの眼科顧問に就任
1952年 井上達二、日本初となる「日本小児用図画試視力表」ならびに「万国式コ試視力表」を作成
1963年 第八代院長に井上正澄が就任
1971年 病院名を「医療法人社団済安堂 井上眼科病院」と改称
1973年 井上眼科病院が健康保険並びに国民健康保険の指定医療機関となる
1981年 第九代院長に井上治郎が就任
1986年 広報誌『井上眼科だより』を刊行
1991年 東京・江戸川区西葛西の地に病院創立以来始めての分院、西葛西・井上眼科病院を開設。
1993年 4月に 健診を中心とした「外神田診療所」、11月にコンタクトレンズの診療を中心とした「駿河台診療所」を開設(のちにお茶の水・井上眼科クリニックに発展的に統合)。
1997年 駿河台診療所に予約制の小児眼科外来・神経眼科外来を開設。
1999年 7月にレーシックなど屈折矯正手術を中心とした「お茶の水・眼科クリニック」を開設
駿河台診療所にロービジョンケアシステム「目の相談室」を開設
2002年 井上治郎が理事長に就任
2004年 西葛西井上眼科クリニック、西葛西井上眼科こどもクリニックを開院
2006年 井上眼科病院に隣接するお茶の水ビルディングに「お茶の水・井上眼科クリニック」を開院。クリニックの初代院長に井上賢治が就任。これに伴い、井上眼科病院の外来部門、駿河台診療所の小児眼科外来、神経眼科外来、お茶の水・眼科クリニックの緑内障外来、角膜外来を発展的に統合。
病診連携の充実と都心にある眼科専門病院の特異性への対応を図ることを目的に「医療連携課」を設置。
第16回国際神経眼科学会(INOS2006)を開催。井上眼科病院主催で若倉雅登が会長を務め、世界31カ国より600人以上の医師が参加。
2008年 井上眼科病院の大規模リニューアル(手術室の増設・デイルームの新設など)
井上賢治が理事長に就任
西葛西・井上眼科病院主催で 第9回日本ロービジョン学会学術総会と第24回日本眼科看護研究会を開催
2009年 井上眼科病院が第3回日本ファシリティマネジメント大賞(JFMA賞)を受賞。
井上眼科病院が「視機能による障害のある患者を迎えるための眼科専門病院の取り組み」の実践者として、日本ファシリティマネジメント推進協会が主催する第3回日本ファシリティマネジメント大賞(JFMA賞)の「優秀ファシリティマネジメント賞」を受賞。
2010年 お茶の水・井上眼科クリニックにロービジョン外来を開設
井上眼科病院にペインクリニック外来を開設
2011年 東日本大震災を受けて、井上眼科災害支援チームを派遣
2012年 第11代院長に井上 賢治が就任
駿河台診療所を統合し、お茶の水・井上眼科クリニック内にコンタクトレンズ外来を移転。
お茶の水・井上眼科クリニックに眼科ドックを開設
2014年 7月にお茶の水・井上眼科クリニックに屈折矯正外来を開設。井上眼科病院レーシックセンターを同外来に移転
お茶の水・井上眼科クリニックにて視覚障碍者に対するITサポートの支援を開始
2015年 西葛西・井上眼科病院が現在の地(西葛西3丁目)に移転。それに伴い西葛西井上眼科クリニック、西葛西井上眼科こどもクリニックを統合。
西葛西・井上眼科病院が一般財団法人国際ユニヴァーサルデザイン協議会(IAUD)主催の「IAUDアウォード2015」にて大賞を受賞。
2016年 大宮・井上眼科クリニック開院
2017年 西葛西・井上眼科病院が一般社団法人日本医療福祉建築協会(JIHa)主催の「医療福祉建築賞2016 準賞」を受賞。
2019年 5月に札幌・井上眼科クリニック開院
井上眼科病院主催で第20回 日本ロービジョン学会学術総会を開催
日本の眼科病院で初となる「運転外来」を西葛西・井上眼科病院に開設
2020年 天野史郎が総会長を務め、第43回日本眼科手術学会学術総会を開催。
2021年 4月に天野史郎がお茶の水・井上眼科クリニック院長に就任
2023年 5月に溝田淳が西葛西・井上眼科病院院長に就任

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